「プラネタリウムの運営を手伝ってもらえないだろうか」
行政からの突然の降ってわいた話に、とまどいを覚えた。
しかし、プラネタリウムに相対する位置が、客席側からコンソール側に変わることが嬉しくもあり、
ワクワク感を抑えきれなかった。
あれから24年。
およそ四半世紀、ほぼほぼボランティアで運営のお手伝いをし続けた地方の小さな公立館が、
この度ひとつの区切りの時を迎えた。
当面は休止、運営費の確保が出来れば再開というなかなかの選択肢だ。
24年間の思い出は尽きない。
とある特別投影の回。テーマは「卒業」。
その本番を迎えるまで、狭いコンソール周辺に3人がこもり、何度となく練習を繰り返した。
当然、いまのようなデジタルの世界ではない。
「このカウンターが36分45秒になったら、そちらのスイッチを入れて!
ひと呼吸おいて、東正面になるよう架台を90度回転。同時にプロジェクターを切り替える。
そして、生ナレーションスタート!」。
あーでもない、こーでもないと、ふと気づけば日付変わりが目前に迫っていたこともあった。
結果、特別投影はイメージどおりに進めることができた。
終了後に寄せられたアンケートには、
「とても感動しました。卒業当時を思い出しました。
自分の子どもが大きくなったら、またこの特別投影を一緒に見に来たいと思います」
とのコメント。本当に嬉しかったことを覚えている。
これまで使っていたアナログ機に加え、デジタル投影機が導入された。
練習と称してあちこちをさわりまくる。目の前には全天に広がる映像が映し出された。
あの都会の大型館で見た番組がそのままに。おまけに途中のコマーシャルまでもが一緒。
こんな番組をちっぽけな地方館で投影してもいいんだろうか、そんな不安も正直あった。
それぞれの特徴を生かしたデジ・アナ併用投影の思惑は見事に外れ、
次第に楽なほうへ楽なほうへとシフトしていったのは無理からぬところ。
自分が関わる最後の投影回。
実は、その前日から高校の同級会が泊りがけで開かれて参加していた。
幹事ということもあり、本来ならば翌朝全員をお見送りしなければならなかったのだが、
プラネタリウム投影があるということで、朝食後、一足お先に失礼した。
間もなく投影が始まろうとしていた時、プラネタリウム室に入ってきた見覚えのある顔。
そして息を弾ませながら「間に合った!」と駆けつけてくれた友。
5人もの級友たちが私の最終投影を見守ってくれた。ただただ感謝である。
私のプラネタリウムの原点は、東京渋谷にその存在を記した五島プラネタリウムにある。
東京で暮らした5年半はもとより、実家へUターンしてからも、事あるごとに「五島詣」は続けられた。
五島の閉館が決まってからは、毎月のように上京した。
5人の解説員がいれば5通りの話が聞ける、五島の真価はまさにそこ。
これがプラネタリウムなんだとの思いをさらに強くした。
そんな時に聞こえてきたのが、地元プラネタリウムお手伝いの話だったのだ。
五島プラネタリウムはもちろんのこと、東急まちだスターホール、平塚市博物館、
りょうちゃんプラネタリウム、葛飾区郷土と天文の博物館、松戸市民会館、堀之内町公民館
などの特色豊かな先輩館に教えを乞いに出かけた。
あの頃は実に貪欲だった。(※館名称は当時のもの)
ネタに窮すると、スタッフは他館の番組を見に出かけた。
なんのことはない。視察と称したお江戸漫遊記で、もちろん自腹。
それから数カ月後、他館の題材や見せ方を参考にした番組が投影されたりもした。
「パクリのプラネ」と仲間内ではそう呼んでいた。
「番組は毎月変わります」がオープン以来の当館のウリ。
スタッフにとって、これ以上のプレッシャーはなかったが、逆にそれがお客さま視点でのウリでもあった。
都会のプラネ館は非日常を求める大勢のお客様で賑わっていると聞く。
わざわざプラネタリウムでホンモノではない星空を見せなくても、
空を仰ぎ見ればまだまだ天の川が肉眼で観察できる当地。
もちろん、プラネタリウムとしての役割や機能があることは百も承知しているが、
絶対的な需要が限られる中では、反論もしょせんはコップの中の嵐でしかない。
「プラネタリウムは五島プラネタリウムのようにあるべき」という理想を掲げ、
「番組は毎月変える」「出来るだけ生解説を入れる」「季節感のある二十四節気を紹介する」
「たとえ少額でもお金を頂いて見せることの意味を考えて」など好き勝手に無理難題を押し付けまくったが、
それを広い気持ちで受け入れてくれた運営スタッフたちには心の底からの謝意を送りたい。
多分に私の独りよがりの部分もあるが、充実した24年間だったと言い切れる。
これからは、元の客席側に戻って、ゆっくりとプラネタリウムならではの星空を楽しむことにしたい。
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